当社創立者、エルウッド・ヘインズ(Elwood Haynes)

“人間の努力の総和と比較すると、人生における人の仕事は、いくら良くても、大したものではない。結局のところ、私たちが仲間の人たちのために何かできるということが良いことであり、本当に価値があるのは業績で栄光を得ることではない。”- Elwood Haynes

ルウッド・ヘインズは、1857年10月14日にインディアナ州ポートランド(Portland)で生まれました。彼はヒリンダ・ソフィア(ハイネス)(Hilinda Sophia (Haines))と、非常に厳格な人であったヤコブ・マーチ・ヘインズ(Jacob March Haynes)判事の10人の子供のうちの5番目の子でした。彼の父方の祖父、ヘンリー・ヘインズ(Henry Haynes)は鉄砲鍛冶で機械工であり、エルウッドに冶金を教えました。

エルウッドは早くに化学と冶金に興味を示しました。15歳の時、 彼は祖父の助けを借りて装置を発明し、黄銅、鋳鉄、および高炭素鋼を送風炉で溶融させることに成功しました。彼の初期の実験と研究は、物質の基本的な特性と異なる合金を作るための混合化合物に関するものでした。

ヘインズは8年生まで公立学校に通いました。 彼の両親は、しばしば野心がないと批判し、職を探しなさいとしつこく要求しました。ポートランドの最初の公立学校が1876年に開校したとき、彼は19歳で学校に戻り、さらに2年間の教育を修了しました。エルウッドは、1878年にマサチューセッツ州ウースター(Worchester)にあるウスター郡フリー・インダストリアル・サイエンス研究所(Worcester County Free Institute of Industrial Science)への入学を許可されました。彼の業論文の題目は、“タングステンの鉄と鋼への影響”でした。それは、のちに冶金において彼が最大の進歩を遂げることになる基本的な原理を説明したものでした。

卒業後、ヘインズは教師になるためにポートランドに戻りました。彼は最終的にポートランド高等学校の校長になりましたが、ボルチモアのジョンズ・ホプキンス大学で大学院生として化学、生物学、ドイツ語を学び続けました。1885年に母親が死亡した後、彼は2年目を修了せずに大学を去り、新たに設立されたEastern Indiana Normal School and Commercial College(現ボール州立大学)で化学科長の地位を得ました。

彼の個人的な生活も発展していました。10年間の求婚の後、エルウッド・ヘインズとベルタ・ランターマン(Bertha Lantermann)は1887年10月に結婚しました。彼らの最初の2人の子供は幼児期に死亡しました。この夫婦には、1892年に生まれた3人目の子供バニース(Bernice)と1896年に生まれた息子のマーチ(March)がいました。2人の子供たちは十分な教育を受けていて、父親の事業を支援するまでに育ちました。

1886年にポートランド近郊で天然ガスが発見されたことに伴ってヘインズは教職を辞し、ポートランド天然ガス・石油会社(Portland Natural Gas and Oil Company)の管理職に就任しました。1890年に、彼はグリーンタウン(Greentown)に本社を置いていたシカゴのインディアナ天然ガス会社(Indiana Natural Gas Company)の現場監督に任命されました。会社の取締役会は、“エルウッド・ヘインズが州内の誰よりも天然ガスのことを知っていることを発見”しました。ヘインズは、会社で働いていたときに蒸気サーモスタットを発明し、パイプラインの乾燥方法と凍結防止方法を発見しました。

会社がインディアナ州東部からシカゴまでの最初の長距離ガスパイプラインを建設したとき、ヘインズはガスのポンプ井の掘削だけでなく、パイプラインの設計と建設も監督しました。パイプラインの建設中、ヘインズは2つの州の間で数えきれないほど馬車に乗りました。ここが、彼が “馬の無い乗り物(自動車)”のアイデアを思いつき、それを製作するための図面を準備し始めた場所です。1892年にパイプラインが完全に動き始めた後、ヘインズと彼の家族はココモに移り、そこでガスプラントの管理者になりました。

彼の最初の“幹線道路で機械的に推進される乗り物の製作計画”は1891年に始まりましたが、彼は直ぐに装置が危険すぎることに気付きました。彼は1893年の夏、シカゴ・ワールド・フェアに出席し、そこでガソリンエンジンを見ました。彼は、その後、1気筒の1馬力のエンジンを購入し、台所に設置した乗り物に取り付けました。 床にかなりのダメージを与え、部屋を煙で充満させた後、ヘインズは実験を続けるためには別の施設が必要だと決めました。ヘインズは乗り物を製作するために、エルマー(Elmer)とエドガー・アッパーソン(Edger Apperson)の兄弟を1時間当たり40セントで雇いました。

1894年7月4日、彼が“パイオニア(Pioneer)”と呼んだ自動車は、最初の試運転の準備ができました。車は、(にぎわっているココモ・ストリートで馬を怖がらせるのを避けるために)馬車でパンプキンヴァイン・パイク(Pumpkinvine Pike)の田舎に曳航されました。

ヘインズの操縦で、車は約6マイルの距離を時速6~7マイルで走行し、米国でこのような偉業を達成した最初の車の1台になりました。

エルウッド・ヘインズとアッパーソン兄弟は、1898年にヘインズ-アッパーソン自動車会社(Haynes-Apperson Automobile Company)として知られるパートナーシップを結び、自動車の生産を開始しました。ヘインズ-アッパーソンの自動車は長距離走行能力があることで知られていました。車は定期的に競争し、耐久レースで賞を獲得しました。意見の相違があり、アッパーソン兄弟の二人はヘインズと別れ、1902年に自分たちの会社を立ち上げました。これによりヘインズはガス会社の仕事から離れ、成長するビジネスにもっと時間を割きました。1905年、会社はヘインズ自動車会社(Haynes Automobile Company)に改名されました。彼は自動車に対する機械的および冶金的な改良を探し続け、8件の特許を取得しました。

点火プラグの接点として使用するのに適した耐食金属を探しているとき、彼はSTELLITE®という名前で特許を取得することになるコバルト基合金を発見しました。この名前は、星を意味するラテン語の “stella”に由来しており、ヘインズはこの合金の輝く、変色しない表面にふさわしい名前であると考えました。これらの合金のこの冶金的な発明は、彼の自動車の発明よりも重要であると一部では考えられています。

STELLITE®合金を製造するために、エルウッド・ヘインズは1912年にヘインズ・ステライト工場(Haynes Stellite Works)を創立しました。1915年に、彼と2人の地元のビジネスマン、リチャード・ルデル(Richard Ruddell)とジェームス・C.・パッテン(James C. Patten)がヘインズ・ステライト社(Haynes Stellite Company)として事業を法人化しました。STELLITE®の最初の需要の多くは、機械工具、歯科器具、食卓用金物向けでした。 第一次世界大戦の間、会社は飛行機エンジンと陸軍野戦病院の外科用メス向けに大量の政府契約を受注しました。1920年、エルウッド・ヘインズは自分の持つ会社の株式を新しい所有者であるユニオン・カーバイド(Union Carbide)に売却し、焦点を彼の自動車会社に戻しました。

彼が年をとり、ビジネスに関わることも少なくなったため、彼は地域社会にもっと関わるようになりました。彼は歯に衣を着せぬ禁酒の提唱者で、禁酒党(Prohibition Party)にかなりの寄付をしました。ヘインズは1916年、インディアナ州で米国上院議員選挙の禁酒党候補者としてキャンペーンを展開しましたが落選しました。彼はまた、ますます慈善活動を行うようになり、ウスター工科大学(Worcester Institute)に奨学金を出すだけでなく、長老派教会(Presbyterian Church)に多額の寄付をしました。ヘインズはココモにYMCAを設立し、そこで水泳の授業を教え、定期的に恵まれない少年たちを映画や夕食に連れて行きました。彼は1919年に米国YMCAの会長に選出され、1年間の任期を2期務めました。1920年、彼はインディアナ州教育委員会に任命され、職業教育のための州予算の増額を提唱しました。

国の景気が後退していたため、ヘインズの自動車販売台数は減少し、競争が激化しました。1924年、ヘインズ自動車会社は破産を宣告し、ヘインズは1925年に資産の清算を余儀なくされました。同年、彼はニューヨーク市の自動車展示会における全米自動車商工会議所(National Automobile Chamber of Commerce)の会合に出席し、そこで、彼とアパーソン兄弟、およびその他の自動車のパイオニア達は、自動車産業への貢献に対して金メダルを授与されました。

彼は帰宅旅行中にインフルエンザに罹り、健康状態が急速に悪化しました。1925年4月13日、エルウッド・ヘインズは67歳でココモの自宅でうっ血性心不全により死亡しました。彼の葬儀中は、市内のすべての事業が1時間中断されました。

エルウッド・ヘインズは、今日でも、燦燦と輝く冶金学者として、そして、インディアナの自動車産業の先駆者として、まだ覚えられています。 彼の想像豊かなマインドは彼の第二の天性でした。ステンレス製のカトラリーであれ、飛行機のエンジンに使用される合金であれ、日常生活を改善し、簡素化するための製品を作ることにより、彼は、夢、アイデア、そして情熱を実用化することができました。 ヘインズは偉大なインスピレーションと業績の人でした。彼は慈善事業に注力し、地域社会とそこに住む人々をより良くしました。彼は、“成功する人は、常に諦めずに続ける人である”と信じていました。

今日でもまだヘインズの名を冠している会社を創立し、彼の“発明の伝統”を守り続けさせているものは、彼の発明精神です。